いつか見た写真集。南の方――四国だったかな、岡山だったかな、一面の菜の花。
山村暮鳥、好きだった。
いちめんのなのはな いちめんのなのはな かすかなるむぎぶえ いちめんのなのはなそんな処を駆けてみたかった。一度でいいから。
「嶋村さん、あなた……あの……一面、菜の花が続いている景色って、ごらんになったことあります？」
あたしは何を言おうとしているんだろう。手におえなくなった自分の感情におびえる。一種妙な感動を覚えながら。もし。もし、理性が感情をおさえられなくなったら、その時は感情に従いなさい。
「山村暮鳥の詩みたいな？ いちめんのなのはな」
髪が勝手にゆれた。心の中でピアノがひびく。スフォルツァンド。
遠くで鳥がなく。すずめかな。
「ひばりじゃなくて残念でした」
いちめんのなのはな。ひばりのおしゃべり。
「いいわ。すずめもわりと好き」
（どういう運命のめぐりあわせか、主人の実家が岡山にあり、岡山は今ではあたしの第二の故郷になってしまったんですが、小学生時代から、岡山っていうのは、あたしの憧れの地だったんです。昔みた写真集で、それこそ画面一杯になのはなが溢れている奴があったんですね。それが岡山の写真で、その写真と、山村暮鳥の『いちめんのなのはな いちめんのなのはな……』って詩の複合作用で、あたしの想像の中の岡山って、ひたすら菜の花が咲き乱れ、ひばりが空を飛んでいる、一種の理想郷だったんです。もっとも、この旅行の時は、菜の花は咲いていませんでしたが……。）